石の呪縛


 ミトス達を乗せた馬車は国境へ向けひた走っていた。
 脱出当初はグランも一緒だったのだが、彼は寄りたいところがあると言って途中で降りた為、今馬車に乗っているのはミトス達と先程から一言も口を利く事無く黙々と馬車を操っているスティルだけである。
 どれぐらいの時が流れただろうか、馬車から見える風景から察するに夜が明け日付が変わった事は確かだ。
 やがて鬱蒼と木々が生い茂った林の中に建っている一軒の小屋の前に着くと、馬車はようやくその走りを止めた。
 ミトス達に馬車を降りるよう目で合図をして先に立って小屋へと入って行くスティル。ミトス達は顔を見合すと黙って後に続く。

「ここは…診療所?」
 中へ入ってすぐに部屋の片隅に置かれている診療ベッドや医療器具らしきものを目にしたミトスは顔を強張らせた。
 誰も怪我をしているわけではないのだから診療所などに用はない。それ故一瞬ミトスの頭に『人体実験』との文字が浮かんできて、また騙されたのではないかと思ってしまったのだった。
 だがここに研究者の姿はなく、また器具類が隅に片付けられているのを見れば、それがミトスの取り越し苦労である事は明らかであった。

 あの研究所を見てから、少々神経が過敏になっていたのかもしれない…。

 ミトスは力を抜くと同時に、そのように怯えきってしまっている自分に対して苦笑を浮かべた。
 そんなミトスの様子を見たスティルは肩を竦めると無愛想に言った。
「正確に言えば元診療所だ。」
「おや、お前、喋れたのだな。」
 ユアンの嫌味を受け流して話を続けるスティル。
「ここは12年前に医師が亡くなり閉じられてから使われていない。その為随分と荒れ果てていたが、それでもクラトス様より連絡を受けて手入れをしておいたから雨露をしのぐぐらい出来るだろう。それにここの事を知っているのはクラトス様と一部の者だけで、むろんファルス様は知らない。だから一晩ぐらいなら十分に追っ手の目をくらます事が出来る筈だ。」
「…一晩?」
「そう一晩だ。」
 スティルはミトスを見詰め言い切った。
「今日の分の食事はそこに用意してある。旅に必要な物資や保存食はその袋の中に入っているから、お前達はそれを持って明日には国境を越えてもらう。国境まではまた馬車で送って行ってやるから安心しろ。」
「ちょっと待ってよ。明日出て行くなんてそんな…。僕達はまだ出て行くわけにはいかないんだ。あの研究所は危険だ。あのまま放っておく事なんて出来ない。」
「だからってどうするつもりなんだ?ぶっ潰すとでも?…どうやら自分の立場が分かっていないようだな。お前達はお尋ね者なんだ。研究所を潰すどころか近寄る事さえ出来やしない。そんな事をすれば即、元の虜囚に逆戻りだろうよ。そうなったら今度こそ死が待っている。」
「それでもやらなければならないんだ。スティル、君はハーフエルフだよね?だったらこの世界のマナが今どんな状況なのか分かる筈だ。あの研究所は危険だ。このままだとマナを減少させている最大の原因である戦争を、今以上に激化させる新たな火種になりかねない。それにあそこでは多くのハーフエルフが実験台にされている。苦しんでいる同胞を見殺しにするなんて出来ないはずだよ。」
「生憎とおいらはハーフエルフじゃない。確かにエルフの血が入ってはいるが、それはほんの少しだけだ。」
「でもマナは見ることが出来る。そうでしょう?」
「ああ。確かにあんたの言う通り、今この世界がどんな状況なのかも、あの研究所で何が行われているのかも、全部分かっているさ。でも今のおいらにはそんな事より、兄ちゃん…クラトス様の方が大切なんだよ。あんた達は今回の事でクラトス様がどれだけ苦しんだか考えた事があるのか?正義を振りかざすのも結構。だがそれにクラトス様を巻き込む事だけは止めてもらいたい。」
 するとそんなスティルにユアンが吐き捨てるように言った。
「またクラトスか。あのブレイズも『クラトスの為なら』と抜かしていたし、今度はお前も…。まるで狂信者だ。あの研究所も確かに危険ではある。しかし私からすればクラトスの方がそれ以上に危険な存在に思えてならん。お前達にそれだけの事をさせる何があいつにあると言うのだ。全く、お前等少しおかしいのではないか?」
「なんとでも言うがいいさ。お前等に分かってもらおうとも思わない。兎に角お前達には明朝出て行ってもらう。嫌だと言っても、腕ずくでも出て行ってもらうからそう思え!」
「な…」
 スティルの言葉に目を剥くユアン。
「腕ずくでも出て行ってもらうだと?…フン、面白い。出来るものならやってみるがいい。お前なんかが私達に敵うとでも思っているのか。」
 ユアンはそう言い放つとダブルセイバーに手をかけ、ミトスも後方で術の詠唱に入る。しかしそんな二人を押さえたのはマーテルであった。
「二人とも待ってちょうだい。私は彼の言う通りにしたいと思うの。」
「!!…姉様、何を言っているの?姉様だってあの研究所を見て怒りを覚えていた筈じゃないか。それなのに…」
「そうね。確かにあそこで行われている事は許せない事だわ。」
「だったら!」
「…でも、約束したのよ。あそこを脱出したらすぐにこの国を出るって、クラトスさんと約束したの。」
 その言葉に過剰な反応を示したのはユアンであった。どうやらマーテルがクラトスの名前を持ち出して来たのが気に食わないようだ。
「クラトスだと!?おいおいマーテル、あいつは向こう側の人間なんだぞ。我々がこんな目に遭ったのも皆あいつの所為ではないか。他にも多くのハーフエルフを手にかけてきたと言うし、あの封印の間の三人を瀕死にまで追い込んだのもあいつなのだろう?そんな奴との約束なんて守る必要がどこにある?」
「彼の事を殺人鬼のように言うのは止めて!」
「マ、マーテル?」
 ショックを受けた様子のユアンを見て、マーテルは目を伏せた。
「…怒鳴ったりしてごめんなさい。でも違うのよ。クラトスさんはあの三人を殺すつもりなんてなかった。ただお母様を守りたい一心からだったのよ。」
「守りたい?」
「クラトスさんが話してくれたの。15年前にファルス家でハーフエルフの暴動騒ぎがあって、クラトスさんのお母様が犠牲になってしまったそうよ。あの三人はその時の首謀者だったのよ。」
「!!」
「ファルスはそれまでハーフエルフに理解がある人だったそうよ。でもそれ以来人が変わったようになってしまった。15年前の事件がファルス家の全てを一転させてしまったのよ。だから彼らにとっては、あの三人の事も他のハーフエルフの事も、その時の復讐だったの。」
「そ、そんな事信じられるか!大体それはクラトス本人から聞いた話なのだろう?そんなのは我々を丸め込む為の嘘に決まっているではないか!!」
「違うわ。嘘なんかじゃない。前にグランさんとブレイズさんが話していた事を思い出してみて。」
「え?」
「私達が捕まった日の事よ。クリスさんが戻って来てクラトスさんを連れ小屋へ行った後、グランさんとブレイズさんがファルスについて話していたでしょう?」
 マーテルの言葉をもとに記憶を辿っていたユアンの目が見開かれる。

“彼は根っからの平和主義者だった筈だ。争いを好まず、戦へと暴走する軍部を嫌っていた。”
“あんたが知っているファルスは20年以上も前のやつだろう?人間20年も経ちゃあ変わるさ。”
“それはそうだが、しかし180度変わってしまうというのは…”
“そうさせる何かがあったんだろう。俺は知らねえよ。”

「あ…」
「思い出した?グランさんが国を離れていた20年間にファルスを180度変えてしまった何か、それがさっきの話だとすれば辻褄が合うのではなくて?……もちろんだからと言って復讐なんて許される事ではない。でもクラトスさんは最後にこう言ったの。『愛する者を失った悲しみにハーフエルフも人間もない。違うか?』って…。それを聞いたら、私は何も言えなくなってしまった。」
 愕然とするユアン。
 初めて会った時にクラトスが自分達へと向けてきた、憎しみが籠った氷のような眼差し。そして旅の間、時折見せていた翳り。その理由が今ようやく分かったような気がした。
 今までずっと被害者はいつだってハーフエルフであり、加害者は人間の方だと思っていた。だがそうではなかった。その立場が逆転する事だってあり得るのだ。その事に初めて気付かされたのだった。
 そんなユアンにマーテルは話を続けた。
「クラトスさんが重い口を開いてようやく話してくれたのはそれだけ。それも真実のほんの一部分だけなのでしょう。…私はあの研究所を見て全てを知った気でいたの。でも彼の話を聞いてそれは大きな間違いだと思い知らされた。よく考えてみたら私達は、クラトスさんの事を初め、あのエクスフィアと言う石の事にしても、彼らが私を使って何をしようとしていたのかも、肝心な事は何一つ分かっていなかったのよ。だからクラトスさんは本当は、そんな私達の思い上がりを一番指摘したかったんじゃないかしら。」
「……」
「今研究所では大切な研究材料である私が逃げた事で大騒ぎでしょう。きっとクラトスさんの立場も悪くなってしまったに違いない。それでも彼はそうなる事を承知で私を逃がしてくれた。何故彼が憎んでいるハーフエルフである私にそこまでしてくれたのかなんて分からない。でも危険を冒してまで逃がしてくれた彼に対して、私達はきちんと応える義務があると思うの。
 あの研究所を放っておけないという二人の気持ちは分かるわ。私だってそうだもの。でもそれは一度国外へ出て、もう一度良く調べ直してからでも遅くはないと思う。
 だからお願い二人とも。今はスティルさんの言う通りにしましょう。このまま再び捕まったりしたらクラトスさんの好意を無にする事になる。私はそれだけはしたくないのよ。」
 そう言って頭を下げるマーテルを見て、ユアンとミトスは思わず顔を見合わせた。
 マーテルは常に自分の事よりまず周りの事を考えてしまうような女性であった。だからこれが我が身可愛さからではなく、ただただクラトスの立場をこれ以上悪くしたくないと言う一心から出た言葉である事は十分に理解出来ていた。
 溜め息を突くユアン。
「…分かったよ。甚だ不本意ではあるが、一度国外に出る事にしよう。ミトスもそれでいいな?」
 しかしそれに対するミトスからの返事はなく、見ると彼は窓の外をぼんやりと眺めながら何やら考え込んでいる様子であった。
「ミトス?どうした?」
「えっ?」
 二度目の呼び掛けにようやくハッとしたように顔を上げるミトス。
 ユアンは眉を顰めた。
「『えっ』じゃないだろう。聞いていなかったのか?」
「あ…う、ううん、ちゃんと聞いていたよ。国外に出るって事でしょう。いいよ。姉様がそうしたいなら僕は全然構わないよ。」
「……」
 何やら様子がおかしいミトスを怪訝そうに見るユアン。
 しかしマーテルは気付かぬようで、
「有難う、二人とも。」
と、ホッとしたような笑みを浮かべながら手を合わせてみせると、先程から黙ったまま三人の様子を眺めていたスティルの方へ振り返ったのだった。
「…どうやら話は纏まったようだな。」
「ええ。色々と失礼な事を言ってしまってごめんなさい。」
「別にいいさ。それじゃぁおいらは明日迎えに来るから、いつでも出発出来るようちゃんと準備を整えておいてくれよな。もし足りない物があったら、ここから西へ1キロぐらい行った所に小さな村がある。簡単なアイテムぐらいならそこで揃える事が出来る筈だ。」
「分かったわ。…あの、助けてくれて有難う。」
 スティルはそれに対して特に返事はせず、軽く肩を竦めてみせると、帰って行った。
 それを見送った後、マーテルは二人に向かって言った。
「それじゃぁ、明日の支度をしておかないとね。足りない物があれば買って来なければならないし…」
「ああ、そうだな。」
 マーテルとユアンは早速スティルが用意しておいてくれた物資の確認作業を始めたのだが、ミトスはその作業を手伝うでもなく、再び一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ユアンはマーテルの傍らでアイテムをチェックしながら、そんないつもと違う様子のミトスを不安げに見ていたのだった。



 それと同じ頃、研究所のアマンダの部屋ではブレイズが一人の珍客を連れて来ていた。
『ベン?…ベンではありませんか!』
 その人物を目にしたアマンダは思わず驚きの声を上げた。
 それは今から四年前、クラトスの要の紋を作る為にドワーフを探す旅へと出たベンであった。
『戻って来てくれたのですね。よかった…』
 目を伏せ安堵の息を突くアマンダ。
『クラトスにはもう会いましたか?実は昨日クラトスが倒れたようなのです。』
「はい、こちらに伺う前にお会いして参りました。」
『それではクラトスはもう大丈夫なのですね?エクスフィアに苦しむ事はもうなくなったのですね?』
 しかし顔を輝かせてそう言ったアマンダに対し、何故かベンは顔を曇らせている。
『ベン?…どうしたのです。もしかして要の紋を作る事が出来なかったのですか?』
「いえ、要の紋は出来ております。」
『それならば何故そんな顔をしているのです?』
 困ったように傍らに立つブレイズに目をやるベン。自然アマンダの視線もブレイズへと移る。
 二人の視線を受けたブレイズは小さく溜め息を突くと、
「拒否したんだよ。あいつ、要の紋はいらないと言い出したんだ。」
 アマンダは目を見開いた。
『そんな…何故?何故です!?』
「あいつは理由なんて言わなかった。でも考えられる事は二つある。一つはあんたの為だよ。マーテルがいなくなっちまった事で、あんたが助かる可能性は限りなくゼロに近くなってしまった。だが方法が全くなくなったわけではない。きっとあいつはそれをしようとしているんだ。」
『方法…それは一体…』
 問い掛けるアマンダの前に今度はベンが進み出て説明を始めた。
「アマンダ様の意識を、消えてしまう前に別のエクスフィアに移すのです。そうすれば現在のカウントダウンはリセットされる。新しい石に移した所で新たなカウントダウンが始まる事に変わりはありませんが、それでも時間稼ぎにはなります。
 ですがアマンダ様のエクスフィアは初期のものにしては純度が高く、普通の石では代わりは務まりません。そこでクラトス様は自分の石を完成させる事でそれを使おうと考えたのでしょう。ご存知の通り、クラトス様のエクスフィアはプロットが作り上げた特別製。純度も高くあれなら十分に代わりが務まりますから。」
『馬鹿な!だってエクスフィアが完成すると言う事は即ちクラトスの死を意味するのでしょう?……止めさせて下さい。すぐにそんな事は止めるようにクラトスを説得…』
「無駄だよ。あいつは聞きゃぁしねえさ。あいつの事はあんたが一番良く分かっている筈だろう?あいつにとってはあんたが全てなんだ。あんたを助ける為なら死ぬ事だって厭わないだろうよ。」
『……』

 確かにブレイズの言う通りだった。クラトスは15年前の事に責任を感じてしまっている。だから少しでも可能性があるのなら、何だってやって退けるだろう。
 あの時私が死んでいればこんな事にはならなかった。私の存在はどこまでもクラトスを苦しめる。

『……結局私があの子をそこまで追い詰めてしまったのですね。』
 悲しげに呟くアマンダ。
 しかしブレイズはそれを即座に否定したのだった。
「違う。追い詰めたのは俺だ。」
『え?』
「あいつは今回の事でずっと迷っていた。だから俺は言ってやったんだ。『お前がやりたいようにやれ。お前が何ものにも縛られる事なく自分の意思で行動する事こそがアマンダさんにとっても幸せなんだから。』ってな。その言葉であいつはマーテルを逃がす決意をした。俺はあいつのあんたへの思いを知っていながら、あんたを見殺しにするよう煽ったんだよ。」
『ブレイズ…。ですがそれは本当の事です。あの子は自分の足で立つ必要がある。あなたは間違ってはいません。』
「だがその結果がこれだ。俺はあのハーフエルフ達はクラトスにとって必要な存在だと思っていた。だからそう言った。そしてあいつは分かってくれたと思っていた。でもあいつはあんたの事を捨てきれたわけじゃなかったんだ。もしかしたらあの時既に、もしもの場合は自分が犠牲になる事を考えていたのかもしれない。」
『……』
 目を伏せ考え込むアマンダ。

 いや、そうではない。その時点ではクラトスにそこまでの考えはなかっただろう。何故ならその時彼はまだ私が消えてしまう事を知らなかったのだから。
 だがその後クラトスはこの部屋でファルスから全てを聞いてしまった。彼が決意を固めたとするなら、あの時しかない。
 やはりどんな事をしてもファルスを止めるべきだった。そうすれば今頃クラトスは要の紋を受け入れ石の呪縛から解放されていた筈なのだ。

 もうこれ以上クラトスに負担を負わすわけにはいかない。エクスフィアに人生を狂わされるのは私だけで沢山だ。

 どうすればいい?
 どうすれば彼を救う事が出来る?

 アマンダは目を上げてブレイズを見た。
『……さっきあなたは考えられる事は二つあると言っていましたよね?そのもう一つの理由とは何なのです?』
「え!?…それは…」
 言い淀むブレイズ。複雑な表情を浮かべ、ベンと顔を見合わせている。
 それはアマンダにとって全く予想外の反応であった。彼が言い淀むなど珍しい。そもそも理由が二つあると最初に口にしたのは彼の方なのである。彼女はただクラトスを気持ちを理解する上でそのもう一つの理由を確認しておきたかっただけなのだ。

 それなのに何故あんなに困った顔をするのだろう。
 先の件よりも言い難い事なのだろうか?

『どうしたのです?今となってはもう何を聞いても驚きません。私はあの子に関する全てを知りたいのです。ですから…。』
 だがそれでも二人はまだ迷っている様子だ。アマンダは眉を顰めた。
『ブレイズ?ベン?』
 苛々したように、重ねて二人に問い掛けるアマンダ。
 ブレイズは溜め息を突いた。
「…分かったよ。どうせいずれは分かっちまう事だからな。けど、俺にはうまく説明出来そうもない。ベン、頼んだぜ。」
 嫌な役を押し付けられベンは恨みがましい目でブレイズを見た。だがやがて諦めたのだろう、
「…エクスフィアの研究は長年研究されて来たとは言え、未だ未知の部分が多く残っているのです。しかもクラトス様のエクスフィアのように特別な物と来れば尚更です。ですからこれから話す事は全て推論の域を出ていないのだと言う事を念頭に置いて聞いて下さい。」
と、前置きした上で渋々と話し始めたのだった。

「私が部屋を訪れた時、クラトス様はまだ意識が戻っていませんでした。すぐに左手のエクスフィアを確認すると、病状は思った以上に悪く、侵食が左腕全体にまで及んでいました。あれでは倒れてしまっても無理はない。かなりの痛みがあっただろうと思われますから。しかし例え予想以上に悪化していたとしても、それだけの症状ならば要の紋さえ着ければ何とかなった筈なのです。ところがそれだけではなかった…」
 そこまで言って、再び口籠り視線を泳がせるベン。
 アマンダは首を傾げた。

 何故そこまで躊躇するのだろう?
 一体クラトスの身に何が起こっていると言うの?

 アマンダの訝しげな視線を受け、ベンは慌てた。
「いや、その何と言いますか…ええと…つまり…体に異変が…」
『異変?しかしエクスフィアに侵食されている事自体、すでに異変ではないのですか?』
「ええ、それはまあそうなんですが…ですから、そうではなくて、その…」
『どうしたのです?一体何があったと言うのです?』
 アマンダはベンの煮え切らない態度に更に苛々を募らせて行く。
 それを見たブレイズは助け舟を出した。
「有り体に言えば、背中に羽が生えたんだよ。」
『!?…羽?』
「そう、羽。鳥に付いているだろう?パタパタ〜ってやつがさ。つまり、つ・ば・さの事。蒼い光の翼があいつの背に現れたんだ。」
『そ、そんな馬鹿な!た、た、質の悪い冗談は止めてください!!』
 さすがのアマンダもこれには驚いたようで、思わず吃ってしまう。だがすぐに気を落ち着けると、ベンを見詰め確認するかのように問うた。
『…冗談ではないのですね?』
 頷くベン。
「実はここに着いてすぐにクラトス様が倒れた事を知った私は、まずブレイズさんに会いに行き、事の詳細を尋ねたのです。私が羽の事を聞いたのはその時でした。正直、私も最初は信じられませんでした。ですが実際クラトス様の様子を見に行ってみると、確かにあったのです。私が行った時にはもう半分消えかかっていましたが、あれは間違いなく翼でした。」
『…しかし何故そんな物がクラトスに?やはりエクスフィアの影響なのでしょうか?』
「はい、恐らくは。私もあんなものを見てしまってはどうにも気になってしまい、アマンダ様にお会いする前に少し調べて来たのです。そうしたら過去に一件似たような症例があったのです。16歳の少女なのですが、エクスフィアを埋め込まれて数年後にクラトス様と同じような羽が現れています。」
『それでその少女はどうなったのです?』
「それが…」
 ベンはまたもや言い難そうに目を伏せた。
「羽が生えてからしばらくして五感、感情がなくなり、ただ生きているだけの人形のようになってしまったのです。そして数ヵ月後に死亡…」
『!!…つまりこのままではクラトスもその少女と同じ運命を辿る事になると?』
「分からないのです。今言えるのはその可能性もあると言う事だけで…。何しろあんな状態になったのは少女とクラトス様の二人だけ。私も実際に目にするのは初めての事で、現時点では想像する事しか出来ない。」
『でも要の紋を着ければ助かるのでしょう?』
「ええ…ですが問題はあの羽なのです。あの状態では例え要の紋を着けたとしても…」
 息を呑むアマンダを見て、ベンは慌てて言葉を継いだ。
「いえ、違うんです。命は助かります。それは保証出来ます。ですが何らかの副作用が残るかもしれない。」
『それは感情を失い人形のようになってしまうと言う事ですか?』
「いえ、要の紋があればそのようになる事はないと思われます。ただ…もしかしたら体内時計が止まってしまう可能性が…」
『体内時計が…止まる?』
「つまり…年を取らなくなってしまうと言う事です。その研究書には無機生命体と書かれていました。あのエクスフィアが、宿主の肉体の構造そのものを作り変えてしまうのだと…。」
 愕然とするアマンダ。
「これは一人の学者が研究データを元に立てた推論に過ぎず、完全に無機生命体となった実例はまだありません。ですから単なる戯言として片付ける事も出来るでしょう。しかしそのデータが先程の少女から取ったもので、尚且つ研究者がプロットとなると少々話が違ってくる。」
『プロットですって!?』
「少女を担当していたのはプロットだったのです。そして少女の体に埋められていた未完成のエクスフィアが、事後どこかへ消えてしまっている…。」
『!!…まさか、今クラトスの左手にあるのは…』
「はい。その少女のエクスフィアと見て、まず間違いないでしょう。だからクラトス様の身に少女と同じ症状が現れた…。プロットはクラトス様の体を使って自分の研究を完成させようとしているのです。」
『……』
 アマンダは目を伏せた。

 きっとクラトスは自分でもエクスフィアの事を調べたのだろう。それで副作用の事を知った。
 無機生命体になる事、それはつまり人ではなくなると言う事だ。その事実を知った時、彼の衝撃は如何許りであっただろうか。
 だからクラトスは要の紋を拒否したのだ。

 私を助ける為に…。
 そして自分が人で在り続けるために…。

 だとしたら、もうクラトスは生きている限り石の呪縛から逃れる事は出来ないのだろうか?

『…でも…それでも私はクラトスに生きていて欲しい。』
 しばらく後、アマンダはそう呟くと顔を上げ、ブレイズとベンを見詰めた。
『そう願う事は我が儘でしょうか?』

 その問い掛けに二人が答えられない事は分かっていた。それでもアマンダは口に出さずにはいられなかったのだ。そうでもしなければこの衝撃の事実に押し潰されてしまいそうだったのである。
 兎に角今はクラトスとじっくり話し合う必要があった。答えは当事者である自分達が出さねばならないのだ。

『今クラトスはどうしているのですか?』
「あいつは旧ファルス邸へ移した。羽は消えているし体の方ももう大丈夫なんだが、あいつが倒れた事は研究所内の噂になっちまっている。もしプロットの耳にでも入ったら何かと煩いだろう?」
『…そうですね。それが正解かもしれません。』
「話したいのか?」
『え?』
「クラトスと二人きりで話がしたいんだろう?俺が呼んで来てやるよ。」
『しかし…いいのですか?』
「プッロトの野郎の事なら心配いらねえよ。見付からないように連れて来るからさ。」
『有難う…』
「礼なんていいよ。これはクラトスの為にもなる事なんだからな。…それじゃぁちょっくら行って来るわ。ベン、あんたはどうする?」
「私はお二人のお邪魔になってもいけないので、クラトス様の部屋で待機しながら引き続きエクスフィアの事を調べたいと思います。」
 一礼して、慌ただしく退出して行く二人。
 それを見送り一人になると、アマンダは自分を映し出しているエクスフィアに目を落とした。

 エクスフィア…自分達の運命を狂わせた呪わしい石。
 一度魅入られたが最後、もうその呪縛から逃れる事は出来ないのかもしれない。
 だが例えそうだとしても、それで諦めてしまっては駄目なのだ。
 やはり私はクラトスを止めなければならない。
 あの子には未来がある。それを自らの手で閉ざしてしまう事になる死などを決して選ばせてはいけない。
 母としてあの子に、運命としっかりと向き合い戦って行く勇気を持つ事の大切さを教えなければ。

 今は辛くても、いつかきっと生きていて良かったと思える日が必ず来る。
 地獄の日々の中、私があなたに希望を見出せたように…。

『サラお義姉様…私に力を。そしてどうかクラトスをお守り下さい。』

 アマンダは目を閉じると、遥か遠くにいる義姉に向かって一心に祈るのだった。


−石の呪縛 終−