旅立ち
俺には九歳以前の記憶がない。
気が付いたら俺はもう十歳の少年で、美しい自然の中、大きな木の近くにある古惚けた小さな小屋でソアラ様とアレグナと三人で暮らしていたんだ。
でも不思議だとは思わなかったさ。過去を知ろうとも思わなかった。
だって、俺はそれが普通だと思っていたから…。
ソアラ様が母さんで、アレグナは姉さん。この愛する二人と一緒にいられればそれだけでよかった。そしてこの大きな木の下、これからもずっと三人で幸せに暮らして行けるものと思っていた。
だが、幸せって続かないものなんだな。
ある日、俺は偶然に自分の秘密を知ってしまったんだ。
何故俺が生まれたのか。
何故俺には記憶がないのか。
そしてその瞬間、俺の中の愛は確実に憎しみへと変わって行ったんだ…。
ここは下界と言うもう一つの世界…。
そこにある森の中に、真剣に何かを作っているブレイズの姿があった。
ここ数日、彼は毎日のようにこの森へとやって来ていた。もちろんそれには立派な理由があって…。
下界…ソアラは外の世界をそう呼んでいた。それがどう言う意味なのか、まだ少年であるブレイズには分からない。そもそも彼は今までずっとこの地には自分達三人しかいないのだと思っていたわけで、そんな外の世界の存在を知ったのはつい最近の事だったのだ。
ブレイズがソアラとアルテナに連れられ初めてこの下界へ降りたのは一週間前の事である。
生まれて初めて目にする下界は彼にとって驚きの連続であった。まず自分達以外にも大勢の人達がいる事を知り、彼らは町と呼ばれるものに集まって暮らしている事、そしてそこにはまだ見た事もない物が沢山ある事を知った。
この初めての体験はブレイズ少年の好奇心を大いにくすぐり、一人で勝手にどこかへ行こうとしてはソアラに連れ戻され怒られたものである。
それ以来ブレイズは、あの日の興奮が忘れられず、ソアラ達の目を盗んでは一人で下界へ降りていた。そしてそんな何回かの冒険の後、『母の日』と言うものの存在を知ったのであった。
『母の日』とは、母への感謝の意を示す日なのだと言う。その日下界に住む多くの者は母親に何かプレゼントを贈るらしい。
(そんな日があったのか…。だったら僕もソアラ様に何かプレゼントしたいな。)
そう思ったもののブレイズには自由に出来るお金などなく、そこで散々考えた結果、彼はソアラの姿を模った手彫りの人形を贈る事にしたのだった。それなら材料である木は森でいくらでも手に入るし、ナイフは持っているからお金は必要ない。
そうと決めるとブレイズはすぐに行動に移した。早速この森へやって来て手頃な木片を探し出すと彫り始める。しかし初めての事で、なかなか思ったように彫る事は出来なかった。ナイフの扱いがぎこちなく、折角彫り上げた鼻をこそげ落としてしまったり、削らなくてもいい所を削ってしまったり…。
「う〜ん、ソアラ様ってこんな顔だっけ?ちょっと違う気がするな。」
失敗してはまた材料探しからやり直し、それを何度も何度も繰り返す。
その内にだんだんと日が暮れてきてしまった。
ふうっと溜め息を突くブレイズ。
正直、こんなに難しいものだとは思わなかった。彼は一日あれば十分出来るものと簡単に考えていたのだ。
(母の日まであと四日しかない。それなのにその内の一日がもう終わっちゃった…。こんなんで本当に間に合うんだろうか。)
ブレイズの中でだんだんと不安がもたげてくる。
だが彼はそれをすぐに振り払った。
「駄目だ!駄目、駄目!弱気になっちゃ出来るものも出来なくなっちゃうよ。諦めちゃ駄目だ。まだ三日ある。そう、まだ三日もあるんだから。」
諦めるのは嫌いだった。『何事も前向きに』がブレイズ少年の信条だったのである。
だがもう日が暮れてしまった。あまり遅くなるとソアラ達が心配するだろうし、今日の所はここで作業を打ち切りそろそろ引き上げた方がいいだろう。
「あ…でもこの作りかけの人形はどうしよう?」
考え込むブレイズ。
母の日まで日がない事でもあるし、出来る事なら持ち帰って作業を続けたいと思う。しかしそれではソアラに見付かってしまう可能性がある。それだけは避けたかった。折角プレゼントをするのだから、突然渡して驚かせたかったのだ。
そこで人形は森の中に隠し、自分がここへ通う事にしたのだった。
こうして初日は殆ど進展がないままに終わり、翌日からは弁当持参で朝から夕方まで人形作りに励んだ。
ここ数日間のブレイズの森通いにはこんなわけがあったのである。
そして母の日当日である本日…ブレイズは最後の仕上げに取り掛かっていたのだった。この三日間でナイフの扱いに大分慣れた事もあり、人形はなんとかそれなりの形を成していた。
(あと一彫り…。)
慎重にナイフを入れるブレイズ。
「よし、完成だ!!」
出来上がった人形は差し込んでくる日の光に照らされキラキラと輝いていた。
満足気な笑みを浮かべるブレイズ。
参考にしたのは町で見た女神像。初めて目にした時、なんとなくソアラに似ていると思ったのだ。あの像に比べると大分落ちるかもしれない。でもブレイズなりに一生懸命に似せて彫ったつもりだった。
「ソアラ様、喜んでくれるかな?…ううん、きっと喜んでくれるに違いないさ。だってこんなに頑張ったんだもの。」
ブレイズは人形をしっかりと抱えると、喜ぶソアラの顔を想像しながら急いで家に帰ったのだった。
家に辿り着くと、ブレイズは扉の前で大きく深呼吸をした。何しろ誰かにプレゼントをするなんて生まれて初めての事なのだ。期待と不安が入り混じり、緊張で心臓がバクバクとする。
意を決して扉に手をかけるブレイズ。すると中からソアラとアレグナが話している声が聞こえてきた。
「それではソアラ様、私は明日にでもアマンダ様の所へ行って、これをクラトス様に渡して頂く様伝えて参ります。」
(あれ?アレグナ、どこかへ行くのかな?だったら僕も一緒に行きたいな。)
外の世界は面白い。まだ自分の知らない事も一杯ある筈だ。ブレイズはその全てをこの目で見てみたかった。
そう思ったブレイズは、もっと詳しく聞こうと、扉から離れ窓からそっと中を覗いてみた。
ソアラとアレグナは居間のテーブルを挟んで、真剣な表情で話し合っていた。そしてテーブルの上には綺麗な七色の光を放つ石が…。
それを見た途端、ブレイズは息を呑んだ。
その石には見覚えがあった。
大分前にブレイズは、日頃から勝手に入ってはいけないと言われていたソアラの部屋に悪戯心から忍び込んだ事があったのだ。その時に大事そうに箱の中に収めてあったあの石を見付けたのだった。
その美しい輝きに思わず手を伸ばしかけたブレイズであったが、そこをソアラに見付かり、こっぴどく怒られてしまった。その後ソアラは半べそをかいている彼に、諭すようにこう言ったのだった。
『これは私の命そのものと言っていい程大切なものなのです。だからこれからは勝手に触ってはいけませんよ。』
その石をソアラはクラトスと言う奴に渡す気でいるらしい。
(何で?どうして?僕には触っちゃいけないって言ったのに…。クラトスって誰なんだ?)
「でもよろしいんですか?この石がなかったらソアラ様は…」
「今の私ではこの力を使う事は出来ません。それならクラトスに持っていてもらった方がいい。」
「…あれから一年。クラトス様も大きくなられたでしょうね。ソアラ様、会いたいのではありませんか?やっぱり私ではなくソアラ様が行って直接渡された方が…」
「もう言わないで、アレグナ。それは許されない事だと分かっているでしょう?」
「……ソアラ様…」
「いいのです。これが母として愛する息子にしてやれる唯一つの事なのは悲しいけれど、持って生まれた運命なら致し方ありません。クラトスが無事に元気に育ってくれればそれでいい。きっとこの石が私の代わりにあの子を守ってくれるでしょう。」
「分かりました。この石は必ず私がクラトス様へお届け致します。」
「有難う、アレグナ。どうか頼みます。」
ブレイズは目を見開いた。
ソアラ様の愛する息子がクラトスだって?…嘘だ!そんな筈ない!!
ソアラ様の息子は僕なんだ。ずっと一緒に暮らして来たんだもの。
クラトスなんて知らない!そんな奴、僕は知らない!!
全身がガクガクと震えてくる。
「ところでブレイズはまた下界へ行っているのかしら。困った子ね。危ないから一人で行ってはいけないと、あれ程口を酸っぱくして言っているのに。」
「大丈夫ですよ、ソアラ様。まだ子供の姿をしていますが、ブレイズも精霊です。生まれた時から力の使い方を知っている。今では剣の腕でも魔力でも、そこいらのモンスターになど負けは致しません。」
(精霊?……何?どう言う事?)
「だからこそ余計に心配なのです。あの子は自分も下界の者達と同じ人間なのだと思い込んでいる。ですが、このまま下界通いが続けばいずれ人間との違いに気付いてしまうでしょう。」
「精霊と人間とでは成長速度が全く違いますからね…。十歳ぐらいの少年の姿で生まれ、その後数年かけて大人へと成長する。そしてその後はずっとその姿のまま変わる事はない…。」
「ええ…ブレイズもあと二、三年後ぐらいには大人になるでしょう。そうなる前に私の口から本人にきちんとあの子の使命を説明しておいた方がいいのかもしれません。いずれはあの子にもクラトスの元へ行ってもらわなければなりませんし。」
「そうですね。ブレイズはその為に生まれてきたのですから…。幸いブレイズのマナはクラトス様のものと瓜二つ。クラトス様はソアラ様のお子ですし、ブレイズもソアラ様が生み出したのですから、それも当然でしょうが…。あれならいざと言う時にクラトス様を救うことも出来ましょう。」
「!!…アレグナ、私は別に…」
「いいえ。私もブレイズも、ソアラ様がいなければこの世に生を受ける事はありませんでした。ソアラ様の為に働くのは当然の事。ブレイズも自分が精霊だと分かれば喜んで命を投げ出してくれる事でしょう。」
(何?一体何を言っているの?……分からない…僕には何が何だか分からないよ!!)
耳を塞ぎ震えるブレイズの中で、何かがガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
もうこれ以上聞いている事に堪えられず走り出す。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ っ!!」
狂ったように叫びながら再び下界へと降り湖の畔へとやって来ると、悲しげに湖面を見詰めるブレイズ。
ソアラ様は母さんで、アレグナは姉さん…これから先ずっと三人で幸せに暮らしていけるものと思っていた。
それなのに…。
“あれならいざと言う時にクラトス様を救うことも出来ましょう”
“ブレイズも自分が精霊だと分かれば喜んで命を投げ出してくれる事でしょう”
ソアラ様もアレグナも、僕が死ぬ事を望んでいるのだろうか?
そんなの酷すぎる。
「どうして?何で僕が、そんなまだ会った事もないクラトスなんて奴の為に死ななきゃならないの?…嫌だ…僕は絶対に嫌だ!!」
ブレイズの瞳に剣呑な光が宿る。
「許さない…許さないからな…。」
僕から幸せを奪ったクラトスも、僕を騙したソアラ様やアレグナも…。
ブレイズは握り締めていた、木彫りの人形に目を落とした。
さっきまであんなにも輝き優しく微笑んでいた女神像が、今では穢れた悪魔のように見える。
母さんなんかじゃなかった…家族なんかじゃなかった…。
人形をゆっくりと湖へ投げ捨てるブレイズ。
「さようなら、母さん……さようなら、僕の夢…」
今この時から僕は一人ぼっち…。
でもそれもいい。復讐鬼には孤独が似合っている。
その日を境に、ブレイズは笑顔を封印したのだった。
それから五年の歳月が流れ、ブレイズは逞しい青年の姿へと成長していた。
そして今日、彼はクラトスがいる世界へと旅立つ。
その報告をしに、ブレイズは一人マナの木の前にやって来ていた。そっと木の幹に手を触れ呟くブレイズ。
「今日これから向こうへ行くよ…。やっとこの日が来たんだ。」
この日の為にブレイズは剣術や魔術を磨いてきた。ソアラは精霊としての使命に目覚めたと思っていたようだが、そうではない。彼の頭の中には復讐と言う二文字だけしかなかったのだった。
「俺の事、醜いと思うか?…でも仕方がないだろう。俺には信じられるものが何にもなくなっちまったんだ。憎しみだけを支えに生きてくるしかなかった。」
目を伏せるブレイズ。
だがそれももうすぐ終わる…そうしたら俺はどうなるんだろう?
俺は精霊だから自分で死ぬ事は出来ない。
またこっちに戻り、このマナの木と共に眠りにつくか…。
それともソアラ様の勘気に触れ消されるか…。
「ま、そんな事はどっちでもいいか。どうせ俺は生きているようで生きてはいないんだから。」
するとそんなブレイズの上にぽとりと滴が落ちて来た。
普通の者なら露だと思っただろう。だがブレイズにはそれがマナの木が流した涙のように感じたのだった。
「どうして泣くんだ?俺が間違っていると言うのか?…そんな事ない。俺は間違ってはいない。だって悪いのはあいつらだ。そうだろう?」
『行きなさい…そしてあなた自身を見付けて来なさい。』
いきなり聞こえてきた声に、目を見開くブレイズ。
「俺…自身…?」
思わず問いかけるが、それ切り声は聞こえて来なかった。
空耳だったのだろうか?ここには俺しかいないのだから。
いや、しかし確かに聞こえた。
だとすると…。
ブレイズはマナの木を見上げた。
この木から自分は生まれた。この木は俺の分身であり俺自身でもある。
そして…
「行ってくるよ、母さん…」
ブレイズは小さく呟くと踵を返した。
あなたが言いたい事は分かる。
でもどうしようもないんだ。
今の俺には復讐しか考えられないんだよ。
心の中でそう叫びながらゆっくりと歩き始めるブレイズ。
その先に運命の出会いが待っている事を、この時の彼はまだ知らない。
そんな彼の姿をマナの木が優しく枝を揺れ動かしながら見送っていた。
行きなさい、息子よ。そして自分自身を、生きる意味を見付けて来なさい。
あなたにならそれが出来る筈…。
−旅立ち 終−