母の日に捧ぐ


 その日ブレイズはハンナと共に、とある家を訪れていた。
 神妙な顔付きで手には菓子折りを持ち…それはいつもの彼からは想像出来ない姿である。
 実は昨日この家の両親が、息子がクラトスに殴られ怪我を負ったと、怒鳴り込んで来たのであった。
 正直ブレイズは高が子供同士の喧嘩、放っておけばいいのではと思ったのだが、しかしアマンダは、
「そうは参りません。クラトスが先方に怪我を負わせたのは事実なのです。喧嘩の理由はどうあれ、こちらから謝りに行くのが筋と言うものでしょう?これも世話係の仕事ですよ。」
と、言って譲らなかった。

(そんなもんなのか?…全く、世間の付き合いって言うのも大変だね。)

 そこでクラトスの世話係として、彼一人では薮蛇になりかねないのでハンナを伴い、こうして謝罪にやって来たわけである。

 先方の家は大層な構えの邸宅であった。それを仰ぎ見るやブレイズは、ここに来る時にアマンダが、菓子折りは一番高級な物を持って行くようにと念を押していた理由が分かったような気がした。
 ハンナが言うには、この家は今でこそ没落してしまっているものの元は由緒正しい貴族の家系だそうで、プライドばかりが高く、常日頃から成り上がりに等しいファルス家を見下す傾向があったようだ。
 その話を裏付けるかのように、二人を出迎えた被害者少年の母親は、まさに自尊心が服を着ているような女性であった。
「全く、お宅では一体どう言う躾をなさっているのかしら?可哀想にうちの子は、頭からは血を流しているわ、腕の骨は折れてしまっているわで、散々な姿で帰宅しましたのよ。」
 そう言いながら、受け取った菓子折りを値踏みするかのように、じっと見詰める母親。
「申し訳ございません…。坊ちゃまの治療費はぜひとも私共にて全額お支払いさせて頂きたく…。」
「そんな事は当然でございましょう?何しろうちの子は頭をかち割られるわ、骨をボキボキにされるわ…」
「もう聞いたよ、それは…」
「?…何か仰いまして?」
「い、いえ、な、何も…本当に、本当に、申し訳ありませんでした。」
 嫌がるブレイズの頭を押さえ付けながら、自分もそれこそ土下座をせんばかりに謝り続けるハンナ。
「大体、どうしてファルス御夫妻本人が謝りに来ないのかしら?召使を代わりに寄越すだなんて、宅を馬鹿にしているとしか思えませんわ。」
「それが生憎と折りも折、主人は出張中で留守、奥様も病に臥せっており、それで止む無く私共が参上したわけでして…」
「養い親の二人が揃ってそんな事だから、今回のような事件が起きるのではなくて?ただでさえ母親に捨てられるような子なんですから、ちゃんと躾けてくれないと。」
「なっ…そんな事は関係ないだろ!」
「あら、関係ありますわよ。子供を捨てて何処かへ行ってしまうような無責任な母親に、乱暴な狂犬のような息子。全く、母親が母親なら子供も子供、こう言うのを血は争えないって言うのでしょう?」
「てめえっ!もう一度言ってみろ!!」
 いきり立つブレイズを、ハンナが必死に押さえる。
「おお、怖い。まるでヤクザだわ。類は友を呼ぶと言うけれど、本当ね。」
「くっ…」
「まあ、今回はこうして謝りに来た事ですし、これで許してあげましょう。二度とこんな事がないよう、これからは狂犬の調教をしっかりやって下さいましね。」
 ホホホホ、と笑いながら家の中に入って行ってしまう母親。
 その後には悔しげに唇を噛むハンナとブレイズが残されていた。



 それから30分後、今回の現場である公園にブレイズの姿があった。
 この公園は町のほぼ中央に位置しており、子供達の格好な遊び場となっている。クラトスも以前はよくここで友達と遊んでいたのだが、学校を辞めてからはファルスに禁じられた事もあり全く近付かなくなっていた。しかし昨日は、研究所へ届け物に行った為、その帰りにたまたまこの前を通ったのだろう。そして事件が起きてしまった…。

(運が悪いって言うか、何と言うか…。あいつもついてないよな。)

 兎に角今はここで何があったのかを知る必要がある。
 彼は今回の事に納得がいかなかったのだ。
 確かにあの親を見れば子供もどんな奴か想像がつく。恐らくはあの母親同様、思わず殴りたくなってしまうような生意気な少年なのだろう。でもだからと言ってあのクラトスが、何の理由も無しに暴力を振るうとはどうしても考えられない。

 きっと何かあったのだ。クラトスが怒りを抑えられなくなるような何かが…。

 だからそれを調べる為に、ハンナと別れ一人ここにやって来たのだった。
 何しろ現在ブレイズが手にしている情報と言えば、相手の親からの一方的な話だけしかない。ここならクラトスの学校時代の友達も来るだろうし、もっと公平な意見も聞く事が出来るだろう。
 しかしだからと言って、その事実を元にあの親と争うつもりなど毛頭なかった。ただブレイズは真実を知りたかったのだ。そうする事で少しでもクラトスの心の内に触れる事が出来たなら、何かが変わるかもしれない…そう思ったのである。

 と、その時、向こうの方から数人の少年少女達がきゃわきゃわと楽しそうに笑いながらやって来るのが見えた。それはまさしく先程から彼が待ち続けていた少年達であった。
「…来たか。」
 もたれていた木から離れ、ゆっくりとその子達に歩み寄るブレイズ。
「よう!お前ら、二、三度うちに遊びに来たガキどもだよな?クラトス様の友達だろ?」
 少年達はこの突然現れた見るからに怪しい青年に不審気な目を向けたが、すぐに思い出してくれたようであった。
「…ああ…お兄ちゃんは確かクラトスんちの…」
「覚えていてくれたか!…そう、ファルス家の使用人でござんすよ。実はさ、ちょっと尋ねたい事があるんだけど、いいかな?」
「……いいけど…何?」
「別に取って食おうってわけじゃないんだから、そんな顔するなよ。ただ俺は、最近お前達がクラトス様に会わなかったか知りたいだけなんだから。」
 顔を見合わせる少年達。
「…会ったって言うか……う、ううん、会ってないよ。」
 何だか歯切れの悪い、物言いだ。
「なら、質問を変えようか。昨日ここでちょっとした騒ぎがあったんだが、お前ら知っているか?」
「…やっぱりその事が聞きたかったんだ。」
「知っているのか!?だったら教えてくれよ。それでクラトスを叱るわけじゃねえし、お前らにも迷惑はかけないから。」
「クラトスの叔父さんに僕達から聞いたって事、言わないって約束してくれる?」
「はあ?何でそこにファルスのおっさんが出てくるんだ?」
「だってさ、あの叔父さん、怖いんだもの。クラトスを見かけても話しかけちゃいけない、近付くのも駄目だって言われているんだ。それなのに昨日僕達も近くにいたって知れたら、僕達はいいんだけど、クラトスが怒られちゃうでしょう?だから…」

(あの野郎、そんな事を…。だからさっきから歯切れが悪かったのか。)

「大丈夫。クラトスの叔父さんには言わねえよ。約束する。だから教えてくれるか?」
 その言葉に少年達はホッとしたような表情を浮かべると、ようやく話し出してくれた。
「兄ちゃんはどう聞いたのか知らないけど、クラトスは悪くないんだよ。悪いのはあっちなんだ。」
「そうよ。悪いのは大将の方よ。」
「大将?」
「今回の喧嘩の相手だよ。あいつ、自分の事、そう呼ばせているんだ。でもガキ大将ってさ、本当はすごく面倒見のいい子の事を言うんでしょう?でもあいつは違う。学校の上級生なんだけど、苛めっ子で嫌な奴なんだ。自分より弱そうな子を見付けては意地悪するんだよ。たぶん、あいつに苛められた事がない子っていないんじゃないかな。」
「うん。ボクも苛められた。」
「おいらも…」
「私も髪の毛引っ張られて泣いちゃった。」
「そ、それはまた…子供の世界も大変なんだな。同情するよ。」
「でもね、そんな時、いつもクラトスが助けてくれたの。」
「え?」
「クラトスってああ見えて優しいからさ、苛めの現場に出くわしては、苛められている子を庇っていたんだよ。」
「…成る程ね。大将にとってはそれが面白くなかったってわけか。」
「うん、たぶんね。生意気だから懲らしめてやるって色々やっていた。でもクラトス強いから、逆に懲らしめられてたけどね。その内、クラトスが学校辞めちゃって…。だから大将ももう諦めただろうって思っていたんだ。でも昨日…」
「たまたま通り掛ったクラトスと鉢合わせになっちまった、と…。」
 少年達は頷いた。
「大将はクラトスを見掛けると嬉しそうに走り寄って行ってさ。クラトスは無視しようとしたんだけど、しつこく付き纏って、『お前って捨て子なんだってな。』から始まって、悪口を一杯言っていた。」
「……」
「それでもクラトスは我慢していたんだ。でも、その内叔母さんの悪口まで言い出してさ。」
「え?叔母さん?」
「ほら、クラトスの叔母さんって、参観日とか父母会とかに一度も来た事がなかったでしょう?でも病気だと聞いていたからしょうがないんだよね。それなのに大将ったら、『それは叔母さんがお前の事嫌いだからだ。』とか、『もしかして人前に出て来れないような化け物並みの姿をしているんじゃないか?』とか、酷い事を言ったんだよ。」
「!!」
「それでついにクラトスも怒り出しちゃって、大将を突き飛ばしたんだ。」

 クラトスが怒ったのも無理はない。彼にとってアマンダの事は誰にも触れられたくない事なのだ。しかも大将に言われた事はどれも彼が真実だと思い込んでいる事ばかりなのだから尚更だろう。
 相手の欠点を論い(あげつらい)揶揄して来るのが苛めっ子の常である。大将からすればほんの軽い気持ちで、そんないつもやっている行為をクラトスに対しても行っただけだったのだろう。
 だがそれは決して言ってはいけない事であった。
 大将は知らず識らず、クラトスの奥底に眠っている闇の部分を突いてしまったのだ。

 でもちょっと待てよ…。

「今、突き飛ばしたって言ったよな?それだけ?ボコボコに殴ったんじゃなくて?」
「ちょっと押しただけだよ。」
「じゃあ、頭から血がシュパ〜とか骨バラバラ〜なんて事は?」
「あるわけないじゃん。大将は尻餅ついただけなんだから。擦り傷ぐらいはついたかもしれないけど。」

(あのババア…やっぱり大袈裟に言いやがったんだな。)

「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ん?…いや何でもないんだ。」
「これで分かったでしょ。クラトスは悪くないんだよ。悪いのは大将の方。だからクラトスの事叱らないでね。」
「大丈夫だよ。さっきも言ったように叱ったりはしないから。色々と教えてくれて有難うな、助かったよ。」
「クラトスの役に立てたならそれでいいんだ。僕達みんな、クラトスの事大好きだったから。」
「そうか…。」
 少年達の言葉をまるで自分の事のように嬉しく思い、思わずニヤリとしてしまうブレイズ。だがすぐに真顔に戻ると、
「しかし何故大将はクラトス様に『お前って捨て子なんだってな』なんて話しかけたのかな。クラトス様がファルス家の実の子でない事は皆知っている事だし、今更ゴチャゴチャ言う事じゃねえだろう?からかう材料なら他にも色々とあっただろうに…。」
「それは…最近の僕達の話題がママの事ばかりだったから。そこへちょうどクラトスが来たものだから、大将はここぞとばかりに突っ突いたんじゃないかな。」
「へ?なんでママの事ばかりなんだ?」
 訳が分からず目を丸くするブレイズ。
 すると少年はこう言ったのだった。
「お兄ちゃん、そんな事も分からないの?だって、明日は母の日じゃないか。」




 いつものように訓練を終えたクラトスは、自室に戻るべく渡り廊下を歩いていた。すると、外の通りから子供達の弾んだ声が聞こえてくる。

「お前、もう母の日のプレゼント買ったか?」
「うん、買ったよ。今年は財布にしたんだ。ママの財布、大分古くなっていたから。」
「そっか〜。俺はいつも通り、カーネーションだよ。」
「ママ、喜んでくれるかな?」
「当たり前だろ。愛する息子からのプレゼントだぜ。嬉しいに決まってるじゃん。」
「だよね。明日が楽しみだな〜。」
 楽しげに笑いながら走り去って行く子供達。

 クラトスは小さく舌打ちした。

 何が愛する息子だ。
 何がプレゼントだ。
 あんなにはしゃいじゃって、馬鹿じゃないのか。

 そして小さな声で呟く。
「母の日なんて大嫌いだ…。」

 するとそこへ、
「ああクラトス様、こんな所にいたんですか。探しましたよ。」

 聞こえてきたのはブレイズの声。
 クラトスは嫌そうに振り返った。
「白々しい。この時間はいつも訓練を受けている事ぐらい知っているだろう。」
「そうでしたね。うっかりしていました。」
 一向に悪びれる様子もないブレイズを睨み付けるクラトス。

 この男は嫌いだ。いつもヘラヘラしていて、何を考えているのか分からなくて…。
 何でアマンダ様はこんな男を連れてきたんだろう。こんな奴、早く首にしちゃえばいいのに。

「何か用?」
「用があるから探していたんですよ。実はいい場所を見付けましてね。ぜひクラトス様をお連れしたいと思いまして。」
「見て分からない?僕は疲れているんだ。どこかへ出かける気分じゃないんだよ!行きたいなら一人で行けば。」
 クラトスはこの煩い男を体良く追い払うつもりでいたのだが、ところがどっこい、ブレイズは立ち去るどころか、
「おお!疲れていると!?それはいけない。それなら尚更リフレッシュしないと。」
 そう大袈裟に驚いてみせると、腕を掴んで引っ張って行く。
「ちょ、ちょっと…だから僕は…」
 この予想外の反応に慌てるクラトス。ブレイズの手を振り払おうとしたが、その力は思った以上に強く払う事が出来ない。そしてそのまま無理矢理連れて行かれてしまったのである。


 やって来たのはファルス邸から歩いて30分ぐらいのところにある丘の上であった。様々な花々が咲き乱れており空気も澄んでいる。その美しい姿は、クラトスが昔に見たマナの木の丘のようであった。もちろんここはあの丘とは違う。そもそもブレイズがあの丘を知っているわけがないのだから。
 しかしマナが減少しているこの時期、このような場所がまだ残っていたとは意外であった。
 そんな驚いた様子のクラトスに、ブレイズが言う。
「ここは俺の故郷に似ているんです。だから初めて見た時は嬉しかったな。それから暇を見付けてはここに来てボーっとするようになったんですよ。」
「……」
「どうです?いい気分転換になったでしょう?花って奴は心を癒してくれますからね。残念ながらカーネーションはありませんが。」
 その言葉にキッとしてブレイズを見るクラトス。
「そうか。昨日の喧嘩について、お説教をしたかったわけ?だったらわざわざこんな所へ連れて来なくても屋敷で十分だったじゃないか。」
「説教だなんてとんでもない。昨日の喧嘩の事なら、むしろ褒めたいぐらいなんだから。よくぞ突き飛ばすだけで我慢したってね。…俺はただ、ここをクラトス様に見せたかった。それだけですよ。」
「それなら何でカーネーションの話なんてするんだよ。関係ないだろ。」
「それはクラトス様が母の日を祝いたいって思っているようだったから。」
「馬鹿らしい。どうして僕がそんな事思わなくちゃならないんだ?……もういいだろ。話がそれだけなら僕は帰るよ。さっきも言ったように、僕は疲れているんだ。」
 クラトスはそう言って憎々しげにブレイズを睨み付けると、踵を返し歩き始めた。
 するとその背に向かって声が投げかけられてくる。

「母の日なんて大嫌いだ。」

「!?」
 再び振り返るクラトス。
「さっきクラトス様、そう言っていましたよね?あれは祝いたいって気持ちの裏返しじゃないんですか?」
「!!…ち、違うっ!僕はそんな…。だって母の日なんて母様がいない僕には関係ない事だもの。」
「いるじゃないですか。」
「確かにいるさ。でも、いないと同じだろう!今何処で何をしているのかも分からない、僕を捨てた母親なんてさ!!」
「そうじゃない。俺はもっと近くに、ちゃんといるじゃないかって言っているんだ。」
「え…?」
「分からないか?アマンダさんの事だよ。」
 クラトスは目を見開いた。
「違う!アマンダ様は違う!…だって、アマンダ様は僕にとっては叔母さんで母様じゃないもの。」
「だったら訊くが、お前にとって母親って言うのはどんな存在なんだ?」
 ブレイズの自分への呼びかけが、いつの間にか『クラトス様』から『お前』に変わっていたのが、今のクラトスにはそれに気付く余裕などないようであった。
 どぎまぎしながら質問に答える。
「そ…それは……優しくて、温かくて…いつも傍にいて僕の事を見ていてくれて…」
「アマンダさんはそうじゃないのか?」
「…でも…だから…アマンダ様は叔母さんで…」
「そんな事はどうでもいいんだよ!!」
「!!」
 突然放たれた大声に驚いたように目を見開くクラトス。
「いいか?世間がどう言おうが、そんな事は関係ないんだよ。お前が母さんだと思えばそれが母さんなんだ。そうだろう?」
「……でもアマンダは僕の事を嫌いなんじゃ…」
「だ〜〜っ!苛々する!!だからお前は馬鹿だって言うんだよ!アマンダさんはな、今まですっとお前の事を実の息子として愛し、見守って来たんだ。それなのにお前は何だ?苛めっ子に言われた事を真に受け、叔母さんだから母親じゃないだとか自分は嫌われているんじゃないかとか、ウジウジウジウジとしやがって、アマンダさんの気持ちをこれっぽちも理解しようとしない。お前みたいのを何て言うのか教えてやろうか?親不孝者って言うんだよ。よく覚えておけ!!」
「……」
「しばらく頭を冷やしてよく考えるんだな。それでも尚、自分の気持ちに嘘を吐きたいのなら、そうやってずっといじけていればいいさ。もう俺は何にも言わねえよ。」
 それだけ言うとブレイズは、呆然としているクラトスをそこに残し一人帰って行く。

 全く、あいつを見ていると苛々する。
 大体あいつは贅沢だ。ソアラ様にアマンダ様、二人の母親に愛されているって言うのにさ。
 それに比べて俺には誰もいなかった…。

 いや…本当にそうなのか?

 俺は生まれた時からずっとソアラ様と共にいた。少なくとも真実を知ったあの日までは、ソアラ様を母と思い、その温もりに包まれながら幸せに暮らしていたんだ。
 でもその間クラトスは、まだ見た事のない母の姿を追い求めながら孤独に生きていた。
 俺が当たり前だと思っていた温かな場所。それは本来ならクラトスがいるべき位置で…。

 ハッとして足を止めるブレイズ。

 クラトスが俺から幸せを奪ったと思っていた。
 でもそうじゃない。奪ったのは俺の方…。
 俺はクラトスの味わうべき幸せをずっと独り占めしていたんだ。

 なんてこった!今頃になって気付くなんて…。

 脳裏に、この世界に旅立つ時に見送りに来たソアラの姿が浮かんで来る。その顔はとても寂しげで、そして悲しそうであった。
 彼女は気付いていたんだ。
 俺の目的に。俺の中にある激しい憎悪に。
 そしてそうさせたのは自分だと悔いていた。

 だからこそ何も言わずに送り出した。
 こんな俺を信じて…。

 俺は何にも分かっていなかったんだ。

「母の日か…。親不孝者は、俺の方かもしれねえな。」
 ブレイズはぽつりと呟くと、晴れ渡った春の空を仰いだのだった。




 その翌日、アマンダの部屋を訪ねているクラトスの姿があった。
 呼びもしないのに彼の方からやって来るのは珍しい。しかも手には花を生けた牛乳瓶を抱えている。
 思わず首を傾げるアマンダ。
「あら、綺麗なお花…。どうしたの?」
 しかしクラトスはその問いに答えず、アマンダからよく見える位置に牛乳瓶を置くと、小さな声でこう言った。
「……違うから。」
 自分に背を向けたままのクラトスを見て、益々怪訝な表情を浮かべるアマンダ。
「クラトス?」
「…とても綺麗だったから採って来ただけなんだ。別に今日だから特別ってわけじゃないんだからね。」
「?…そ、そう…」
「そうだよ。だからこれは絶対に母の日のプレゼントなんかじゃないんだからね!」
「!!」
 顔を赤らめ急いで部屋から出て行こうとするクラトス。
「待って!」
 クラトスは戸口のところで足を止めたものの振り返ろうとはしなかった。
 その背に向かって震える声で語り掛けるアマンダ。
「…有難う、嬉しいわ。こんなに嬉しい事はない。大切にするからね。一日でも長く咲いていられるように大切に、大切にするから…。」
 クラトスは何も言わず、コクリと頷いただけだった。それはよく見ていなければ分らない程の小さな頷きであり、また背を向けたままだったのでアマンダには顔を見る事は出来ない。だが彼女には分かっていた。今のクラトスが笑顔を浮かべている事を…。
 そして実際にクラトスは笑っていたのである。それは照れ臭そうではあったが、心からの輝くような笑顔であった。



 それからしばらくしてハンナが部屋に入って来た。そのまま掃除を始めようとしたが、隅に置かれている花に気付く。
「あら、この花は…」
「クラトスがプレゼントしてくれたの。綺麗でしょう?」
「まあ、クラトス様が?…それはそれは…」
 ニッコリと笑うハンナ。プレゼントの意味をすぐに察したようであった。
「それじゃあ、花瓶に移しましょうね。どんな花瓶がいいでしょうかねえ。やはり野の花だから地味な方がいいかしら。」
 楽しそうにあれこれと考えながら花瓶を取りに行こうとする。
 しかしアマンダはそれを止めた。
「待って、ハンナ。このままでいいわ。」
「え?しかし牛乳瓶ではいくらなんでも…」
「いいのよ。だって、その方がクラトスが一生懸命摘んでくれている姿が自然に浮かんで来て、とても幸せな気持ちになれるんですもの。だから…ね?」
 ハンナは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまた笑顔を浮かべると言った。
「そうですね。ではこのままで…。」
「有難う。」
 再び花に目をやるアマンダ。

 はっきり言って、それはどこにでも咲いている雑草とも言えるような花であった。しかしアマンダの目にはどんな高価な花束よりも美しいものに映っていた。

 自分にはもう二度と味わう事がないと思っていた母としての幸せ…それを、今彼女はじっくりと噛み締めていたのである。


−母の日に捧ぐ 終−